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やればできるぞ日本人!-仕事はアイデアと意地だ!
 ~竹丸渋谷水産株式会社 
   代表取締役 渋谷猛(しぶやたけし)氏

2011-06-24

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生たらこのおにぎりがコンビニの棚に並ぶようになったのは、無菌たらこの製造を実現させた、竹丸渋谷水産株式会社を経営する渋谷猛さん(72歳)の挫けず挑戦し続ける意地の賜物だ。その製造方法を学びに、国内外から多くの食品メーカーが、札幌から車で約1時間20分に位置する白老町虎杖浜にある渋谷さんの工場を訪れる。その渋谷さんが水産加工業で身を立てようと考えたのは中学生のとき。



水産加工業で生きる

「中学時代、放課後になると地元・虎杖浜の水産加工場でアルバイトをしていたんだが、この仕事が気に入ってね」。渋谷さんは、中学を卒業すると、1年ずつ4年間、道内の異なる水産加工会社で働いて経験を積んだ。さらに5年間、今度は室蘭の高級魚を、他の業者に先んじて札幌や小樽の市場に卸すことで資金を貯えた。そして昭和37年、25歳のときに、渋谷さんは生まれ育った虎杖浜に、竹丸渋谷水産株式会社を設立した。


既に虎杖浜には何代も続く水産加工会社がいくつもあった。その中で、1代目である渋谷さんはどのように事業を展開していったのか。創業当時、地元の水産加工会社が扱うのはたらこだけで、スケトウタラが漁獲される半年だけ操業し、残りの半年は休業するところが多かった。しかし、他の地域では1年中操業していることを知っていた渋谷さんは、自分も年間を通じて操業できるよう、夏場は身欠きニシン、冬場はたらこの加工を手がけることにした。このように、慣習や前例にとらわれない経営姿勢で、渋谷さんは多くの"新しいもの"を生みだしていく。



 

たらこ漬け機の考案秘話

これも創業当時の話だが、その日に採れたスケトウタラを買い付けて、工場に運ぶ段取りをつけると、渋谷さんは地元の水産加工会社の社長さんたちと飲みに行った。「20代後半のまだ若い頃だからね、周りの60歳ぐらいの先輩経営者たちから飲みに誘われて、毎日午前様だった」。その間、工場では...。


「冷凍技術が発達していなかった頃だから、スケトウタラが夕方工場に運ばれてくると、すぐさま腹から卵を出して漬け込まなければならなくてね。それで残業代を出して夜、従業員に働いてもらった。でもそれも卵を出すところまで。夜9時からの卵の漬け込み作業は、うちのかあちゃん(奥さん)が、傍らの長いすに子どもを寝かせて、一生懸命やっていたんだ」。満遍なく味を浸み込ませるため、卵の位置を変えながら漬け込む作業は明け方まで続く。


「でね、かあちゃんから、あんたが飲んでいる間、私は夜も寝ないでたらこ漬けをやっているのよ。勘定があわないと責められてね」。申し訳なく思った渋谷さんは、寝る前に卵を入れれば朝には自動的に漬け込みが完了する機械を必ず作るからもう少し辛抱してくれと奥さんに約束をしたという。「それからというもの食事のたびに、いつ機械はできるのかってせっつかれてね」と苦笑する渋谷さん。


渋谷さんのすごいところは、奥さんとの約束がその場しのぎの口約束ではなく、本当にその機械を考案したこと。「それでもできるまでに2、3年はかかったけどね」と渋谷さん。現在たらこの水産加工場で一般的に使われているミナト式助子漬自動回転機は、渋谷さんが考案し、それを企業が製品化したものだ。



悔しさをバネに~無菌たらこの実現

(1)取引先を失う


昭和52年からの取引先である大手外食チェーンから、「これからは衛生管理が厳しく問われる。ついては3年以内に大腸菌ゼロの無菌たらこを納められるようにしてほしい。できなければ取引は中止する」という申し入れがあった。平成元年のことだった。


「大腸菌というのは目に見えないので、簡単に捕まえられるようなものではない。タラの腹から出てきた卵自体には大腸菌はないんだが、加工していくうちにどんどん増えていくんだ。薬品を使わず大腸菌ゼロにするにはどうしたらよいか、勉強すればするほど難題であることがわかってきた。減らすことはできてもゼロにすることは難しい。結局3年の期限以内に実現することはできなかった」とその頃を思い出し、悔しさを滲ませる。


「全取引の3分の1を占める194トンの取引先を失うというのは本当に大きな痛手だった。外食チェーンの要請に合わせて製造量を増やし、自社の規模も大きくなった。それを、取引先がなくなったからといって、簡単に規模を縮小することはできないものなんだよ。今の規模を維持するために、新たな取引先を探さなくてはならなかった」



(2)不屈の挑戦


しかし、その後も、無菌たらこの実現を渋谷さんはあきらめなかった。「悔しくてね。とにかく勉強した。本をたくさん読んだ。保健所の専門家のところにも通った。それから東京や大阪の新築の病院の手術室を見学しに行った。手術室というのは無菌状態だからね。勉強を始めて5年経った頃にいろいろなことが見えてきて、無菌たらこの工場のアイデアも浮かんできた」



(3)無菌たらこ工場の完成


平成10年、無菌たらこを製造するための工場が完成した。ここで使われる設備や機器は、渋谷さんのアイデアに基づいてこの世に生み出されたもの。短時間で大勢の人の塵埃を除去するエアーシャワーもその1つだ。


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「当時エアーシャワーは除じんするのに時間がかかりすぎて、従業員の多い工場でそのまま使うことはできなかったんだ」。そこで渋谷さんはメーカーと何度も繰り返し交渉して、自分が必要とする性能を備えたものに、既存のエアーシャワーを改造してもらった


これまで見てきたように、渋谷さんは機械類に強い。だからこそ機械導入には一家言を持っている。「機械が好きで一生懸命勉強するので、よく知っているからこそ、自分の工場に安易に機械を入れるのは嫌なんだ。機械のプラス面にすぐに飛びついたりしない。マイナスの面も良く調べて、マイナス面が多ければ導入しないことにしている。メーカーが開発したものをそのまま使用するということもあまりしない。自分のニーズに合うように改造してもらっている。だから機械の導入に関しての失敗は絶対にないんだ。そういうわけで、うちの工場は機械が少ないんだよ」


大学の研究室にも協力してもらったという。「カビが発生しないように、エアコンの力を借りずに自然の素材や力を利用して、工場内の温度と湿度を保つにはどうしたらよいか相談にのってもらったんだ」。相談の際のポイントは、工場の見取り図や通常の年間の温度や湿度、風向きなど、大学が検討するのに必要な情報をきちんと伝えることだという。そうすることによって初めて適切な助言をもらうことができるということだ。「大学は研究するところなので方法を教えてくれるが、実際にやってみるのは自分たちなんだ」


無菌たらこという安心・安全な食品をつくるために試行錯誤を重ねた結果、「うちはね、きつい、汚い、暗いの3Kから、明るく清潔な職場になり、若い女性が就労してくれるようになった」と渋谷さんは嬉しそうに語る。



(4)無菌たらこの製造工程の確立~北海道HACCP認証取得~


工場や設備・機器を揃えれば無菌たらこができるというわけではない。保健所の勧めもあり、食品の衛生管理システムであるHACCPに取り組むことにした。「設備などはお金を出せばできるが、問題は従業員の意識改革なんだ。うちはそこを徹底させるために3年かけた」と渋谷さんは力を込めて語る。


コンビニの棚に生たらこ入りのおにぎりが並ぶようになったのは平成13年。「それはね、私が全国初の無菌たらこの製造を実現させたからなんだ。非常に画期的なものなんだよ。」そして平成15年には、北海道HACCPの認証制度で最高基準の認証を取得した。「食品会社で一番衛生管理がきちんとしているのはうちの会社!」と渋谷さんは胸をはる。



大切なのはアイデアと意地


「無菌たらこの実現を通して思うことはね、やろうと思えばできるということ。私自身も粘り強く勉強したが、メーカーも大学もよく対応してくれた。私がこういうものが必要だ、こういうことができないかとお願いすると、完璧なものをつくり上げてくれた。それで、つくづく思うのは、日本人というのは、課題や試練に対して必ず乗り越えることができるということ。不可能はない」と私たち日本人を励ましてくれる。


「商売で成功するかどうかは、努力するかしないかにかかっている。努力する人は報われる。人間は努力しなきゃならないものなんだ。だからね、私が従業員に求めているのは、アイデアと意地。それがない者はうちには必要ない。逆に言えば、アイデアと意地さえあればそれでいい」 



小学生の体験授業


小学校の教科書に地元の産業として虎杖浜たらこが紹介されていることから、小学校から体験学習として児童を受け入れてほしいという申し出があった。受け入れに最初は戸惑ったが、子どもたちの将来のことを考え、たらこのパック詰めを体験してもらった。子どもたちがつくった商品を、学校近くのスーパーで販売してもらったところ、孫が作ったたらこだと、おじいちゃんおばあちゃんが喜んで買ってくれ、そのことが新聞にも掲載された。現在も社会貢献事業として大勢の児童たちを受け入れている渋谷さんは、「体験学習をした子どもたちからのお礼の手紙は私の宝物だよ」とそれらの手紙を見せてくれた。



命びろい


平成18年、渋谷さん68歳。話し方など身体の変調に気づいて病院に行ったところ、放っておいたら大変なことになっていたと医者に言われた。「それまで、自分は40代の気持ちで、前ばかり見てがむしゃらにやってきたが、病になってはじめて立ち止まり、後を振り返ることができた」と渋谷さん。


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「今と昔の会社の売り上げを見比べると、平成10年を境に東京の市場に卸す業務用の商品が減っていて、逆に通信販売やスーパーなどの小売用の商品が増えていたんだ」。完全に世の中の流れが変わってきていることに気づいた渋谷さんは、冷静に20年30年先を考え、生き残りのために、今までの考え方をがらりと変えていくことを決断したという。


「現在、私は72歳。うちで働いている息子は46歳。そろそろバトンタッチの時期だ。その前に、あと2、3年、長くても5年、平成26、7年頃までには、先の見えた新しい販売方法、販売ルートなどに変えていかなければならないと思っている。そこで、現在、販売力を強化するために人に投資している。今のような不景気なときは、投資するのは設備よりも人だ。景気のいい時は、中小企業に人は来ないからね。不景気だと嘆いていても仕方がない。不景気なりにやれることはいっぱいある。不景気な間に何をするか、目標を立てて努力すれば必ず上手くいく。トップはそのくらいの気持ちでやっていかないとね」。渋谷さん、頑張れ!



苫小牧信用金庫からのメッセージ


会社の成立ちからも読み取れる通り、渋谷社長はイノベーションを繰り返すことによって竹丸渋谷水産株式会社を今の姿まで持ってきた方です。問題を見つけ、人一倍の努力を惜しまず解決する。一見単純ですが、大切な事を貫いている社長です。

 また、白老の地場産業を長年にわたって盛り上げている社長と共に、我々も地域活性化に更に尽力しなければと、励まされる思いです。



*       *       *

この物語は、東日本大震災以前の取材をもとに作成したものです。


このたびの震災では、工場の位置する白老町にはそれほど大きな被害がなく、渋谷さんご自身も、以前と変わらずお元気にご活躍なさっているとのことです。


なお、白老町は仙台市の姉妹都市でもあり、町職員の派遣、義援金の募集、被災者受け入れ住宅の確保等を通じて最大限の支援を行うことを、町長自ら表明しています。
渋谷さんと竹丸渋谷水産の益々のご発展、そして被災地の1日も早い復旧を、心よりお祈り申し上げます。



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